芭蕉  .

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今日、5月16日は

1689(元禄2)年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉が「奥の細道」への一歩を踏み出した日です。
せわしない現代生活の中で、「旅の心」を大切にし、旅のあり方を考え直そうと、日本旅のペンクラブ(旅ペン)が1988(昭和63)年に制定しました。

 

 

松尾芭蕉

江戸時代前期の俳諧師。

現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門宗房。

俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟門下。

 

奥の細道や俳句で有名ですよね (^^) 。

 

 

草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家

このみすぼらしい草庵も、人が住み替わるときがやってきた。新しく住む人は世捨て人のような自分と違って弥生の節句には雛も飾ることであろう。こんな草庵でも移り変わりはあるものだ。

 

行く春や 鳥啼き魚の 目は泪

春は過ぎ去ろうとしているが、それを惜しんで鳥は鳴き、魚は目に涙をたたえているかのようだ。旅に出る自分を見送る人々も、ともに別れを惜しんで涙していることだ。

 

夏草や 兵どもが 夢の跡

夏草がぼうぼうと生い茂っている。その夏草を見ていると、ここがかつて勇士たちが戦って奮戦した場所とは思われず、ひとときの夢の跡のように感じられることだ。

 

五月雨の 降りのこしてや 光堂

毎年降る五月雨が、この堂だけは降らずに降り残したのであろうか。五月雨の中で昔からの美しい姿をして、光堂の名のように光り輝いていることだ。

 

象潟や 雨に西施が ねぶの花

この寂しさを感じさせる象潟の地にねむの花が咲いている。その風情は、あの中国の美女西施が物思いに沈んで、目を閉じているかのようである。

 

あらたふと 青葉若葉の 日の光

ああ、尊いことだ。日光の御山は、日の光がさんさんと青葉若葉に降り注いで光り輝いている。東照宮の御威光もまた、そのように天下に行き渡っていることだ

 

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

あたりは静かで、物音ひとつせず静まりかえっている。その中で蝉の声だけが岩にしみ入るように聞こえ、静寂さをいっそう際立たせている。

 

五月雨を あつめて早し 最上川

降り続く五月雨を一つに集めたように、なんとまあ最上川の流れの早くすさまじいことよ。

 

荒海や 佐渡によこたふ 天の河

日本海の荒海を隔ててかなたに佐渡が島が黒い島影として見える。その佐渡が島に向かって、天の川が白々と夜空に大きく横たわっている。佐渡が島の歴史への懐旧の思いがつくづくと感じられる。

 

むざんやな 甲の下の きりぎりす

なんともいたましいことだ。あの実盛の形見の兜の下ではこおろぎが鳴いていて、秋のあわれを誘うことだ。

 

石山の 石より白し 秋の風

 那谷寺の岩は石山寺の石よりも白く曝されているが、その上を白い秋風がしらじらと吹き渡っている。

 

 

そして、奥の細道

暗記した記憶が…(ーー) キレイサッパリワスレテマスガ…💦。

 

【序文】

月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。

舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。

古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。

よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)をはらひて、やや年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取(と)るもの手につかず。

ももひきの破(やぶ)れをつづり、笠(かさ)の緒(お)付(つ)けかえて、三里(さんり)に灸(きゅう)すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住(す)める方(かた)は人に譲(ゆず)り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移(うつ)るに、

草の戸も 住替(すみかわる)る代(よ)ぞ ひなの家

面八句(おもてはちく)を庵(いおり)の柱(はしら)にかけ置(お)く。

 

【現代語訳】

月日は永遠の旅人であり、来ては過ぎる年もまた旅人のようなものである。
絶えることなく行き交う舟の上に人生を浮かべる船頭、馬の口をつかまえて老境を迎える馬借(馬方)などは、毎日が旅であり旅を自らの住処としている。
昔の人も旅の途上で死んだ者は多い。
私もいつの頃からだろうか、千切れ雲が吹き飛ばされる風情に誘われて、さすらいの旅に出たい気持ちを抑えられず、須磨・明石など近くの海辺をさすらったりしていた。
去年の秋、ようやく隅田川のほとりにある深川芭蕉庵の家に戻り、古巣を払いのけたりなどしている内にその年も暮れた。

春の空に霞が立ちこめるようになると、白河の関(現在の福島県にあった関所)を越えたいと思い、気持ちを急き立てるそぞろ神がついて狂おしい心境になり、旅の神(道祖神)の招きにもあって取るものも手に付かなくなってしまった。
旅の準備をするために、股引きの破れを修繕して、笠の紐をつけかけ、足を健脚にする三里のツボにお灸を据えたが、まずは松島の月の風情が心に浮かんできて抑えられない。
今の小さな庵は人に譲って、弟子の杉風の別荘にまずは移った。

草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家(この小さな草庵も遂に住民が住み替わることになったが、新しくやって来る住民一家にはお雛様を飾る小さな女の子がいるらしい。
今までの男だけの家とは打って変わって、ひな祭りを家族で祝う明るい家へと変わっていくのだろう)

この最初の句を書き付けた『表八句(第一紙の表に記した八句)』の懐紙を庵の柱に掛け置いて、旅立つ前の挨拶とした。

 

 

松尾芭蕉、忍者説 ⁉

 

46歳で1日数十kmを移動できるのは普通ではないということと、芭蕉の出身が忍者の里として有名な伊賀であることなどから、芭蕉が実は「忍者」だったのではないかという説があります。

 

当時は今のように自由に移動することが出来なかった為、それぞれの藩が発行する通行手形というものが必要でした。(現在の外国に行くためのパスポートのようなイメージです。)
通行手形を取得するのは現在では考えられないくらい大変で、発行までにもかなりの時間を要していました。
そんな通行手形を手に入れられるのは、よほどの功績を残した人物だけ。ひとりの俳諧師がただ旧名所を巡る為だけに簡単に発行したとは考えられません。

 

実は「おくのほそ道」の旅は、幕府から正式に認められた密偵としての旅だったのではないかという説があります。
当時水戸藩は、伊達政宗のいる仙台藩が不穏な動きをしていると感じていました。そこで仙台藩の動向を探るべく、芭蕉を密偵として仙台に向かわせたのではないかというのです。
それが本当であれば、通行手形や旅費の工面にも納得できますね。

 

 

という訳で…

調べていくほどに奥は深くなるばかり…

 

 

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