咸臨丸  .

本日のご来場、誠に有難うございました。

 

 

フィッシングマックス様、海上釣堀 湯浅 など協賛にて開催されました大会。

本日終始、大会日和となり良かったです☀。

 

幹事様、大会にご参加いただきました皆様。

お疲れ様でした。

またのご来場を心よりお待ちしております(@^^)/~~~。

 

 

 

本日は咸臨丸のご紹介です。

 

 

咸臨丸とは、幕末期に江戸幕府が保有していた軍艦。

木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットである。

旧名、Japan。

「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。

 

1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断。

咸臨丸はポーハタン号の別船として、

旧暦1月13日品川を出帆、

旧暦1月19日に浦賀を出港、

旧暦2月26日(太陽暦3月17日)にサンフランシスコに入港。

 

艦長は勝海舟(正確には勝は「軍艦操練所教授方頭取」、木村摂津守は「軍艦奉行」であったが、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)は勝が艦長、木村が提督との説明で押し通した)。

福澤諭吉らも乗船していた。万次郎以外の船員は大半が船酔いで、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉他、アメリカ人乗員の助けを借りての航海であった。

 

咸臨丸冒険成功させたブルック大尉
                                        

激しい暴風雨と荒れ狂う北太平洋に乗り出した

満載排水量625トンの小型帆船軍艦・咸臨丸の操艦で必要であったのは、
的確な状況判断力と、時々刻々変わる状況に対応する適切な帆の操作と
舵取りであった。咸臨丸は蒸気機関を装備していたが積んでいた石炭は

わずか3日分であった。

人格・判断力・技量・経験に優れたブルック大尉が
艦長として、この小型帆船軍艦・咸臨丸の操艦指揮をしなかったならば、
往路において、咸臨丸は海の藻屑となり、乗組員全員が溺死しただろう。

咸臨丸に乗り組んだ、木村摂津守喜毅、勝麟太郎海舟を始めとして、当時としては、
最も海事について視野広く、海事技能習得に強い意欲を持っていた、いわば、
幕末の幕府海軍のエリート士官たちが、咸臨丸の太平洋横断往路航行から
学び取ったことは、危機的状況においては、家柄とか、身分とか、禄高とか、
面子(メンツ)とか、従来のしきたりは、まったく役にたたないということであった。

そして、何よりも重要なことは、指揮官の的確なリーダーシップであることを
痛感した。

危機的状況に直面した場合、変化を的確に認識できない、
旧来の体制の組織風土では対応できないことを学び取った。

往路において、彼らは、ブルック大尉から数多く学び、
帰路は、日本人士官たちが中心となって航行し、無事、日本に帰り着いた。

 

1635年、徳川幕府は国際社会への絶縁状ともいえる鎖国政策(鎖国令)を実施した。
現在の北朝鮮と同様、以降、日本人が外国に行くことは犯罪とされ、厳しく処罰された。
外洋を航行できる大型船の建造も禁止された。

鎖国令以来、実に、225年ぶりに、日本の軍艦・咸臨丸が外洋へ乗り出したのである。
これは、まさしく、歴史的な快挙であった。

日本の軍艦が太平洋を横断して、米国のサンフランシスコに到着できたということは、
それまでの日本の歴史でかってなかったことである。日本史上特筆すべき冒険であった。

 

 

咸臨丸、記録的な暴風雨の中、何とかサンフランシスコに到着したところで…

 

 

 

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